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鉄製犂先

てつせいすきさき

概要

鉄製犂先

てつせいすきさき

民俗 / 明治 / 富山県

高岡・カク丁鋳造所(南部鋳造所か)

たかおか・かくちょうちゅうぞうしょ(なんぶちゅうぞうしょか)

富山県高岡市

明治28年以降/1895年以降

鉄・鋳造

写真左から
①縦29.1cm×横15.8cm×厚さ3.2cm
②縦29.5cm×横15.7cm×厚さ3.4cm[ラベルあり]
③縦30.7cm×横15.5cm×厚さ3.1cm[ラベルあり]
④縦34.5cm×横16.2cm×厚さ3.0cm

4

富山県高岡市古城1-5

資料番号 2-02-01-10

高岡市蔵(高岡市立博物館保管)

高岡鋳物の犂先(注1)(注2)4個である。犂先とは、牛馬に引かせて田畑を耕やす犂の先端の金属部分である。先端は尖っており、反対側は斜め(扁平な表面の上から見て①~③は左から右へ下がり、④は右から左へ下がる)になっている。裏面の内側には犂床(すきどこ)(注3)をはめ込むための空間がある。④は4つの穴が空いている(釘穴と思われる)。②と③の表面には同じラベルが貼られている。少なくともこの2点は未使品と思われる。ラベルには円の上部に「請合」とあり右上の「刄(刃)カタク」から左上の「切レ良イ」の順で読む。下半分は「高岡カク長鋳造所」とあり、中央に「丁」、左右に「登録/商標」とある。
 「高岡カク長鋳造所」はおそらく寄贈者でもある南部鋳造所のことと思われる(注4)。
 資料状態は、全体的に錆と剥がれが目立ち良くない。またラベルの剥がれと変色も目立つ。

〔注〕
1.犂
 犂とは、牛馬に引かせて田畑を耕起する農具。奈良時代に中国や朝鮮半島から伝来した。犂が広く普及するのは、明治になって乾田化が促進され、犂耕を広める馬耕教師が各地を回るようになってからである。明治後期には長床犂の安定性と、深耕しやすく小回りのきく無床犂の長所を併せもつ近代短床犂が考案されて全国各地に広まり、さらに改良を加えた多種多様な犂がつくられ、動力耕耘機が普及する昭和30年代まで使われた。
 (『[絵引き]民具の事典』工藤員功編、2008、河出書房新社、p229~230)
※ちなみに現在の高岡市戸出放寺の清都八助・宗一郎父子が製作していた「放寺の犂」(単用犂、片犂)は昭和30年代まで広く使用された。
(佐伯安一『富山民俗の位相』桂書房、2002、p428~430)
(『砺波の民具』砺波市立砺波郷土資料館、2006、p17)
2.高岡鋳物の犁先
 高岡鋳物の犁先が使用されるようになるのは、明治22年(1889)に富山の三塚宗平らによって軽量化されて後のことである。明治28年(1895)には、撥(は)ね板の部分にも犁先を取りつけ、摩滅したり折損したりしたときに鋤先を取り替えることが出来るようになってから普及した。この改良犁の犁先は、主として高岡の般若善四郎や南部長七が製造しており、県内のクワガラ屋(犁、鍬、担棒(たんぼう)、馬鍬(まんぐわ)、炬燵(こたつ)の座・櫓、俎(まないた)、稲扱(いなこき)などを作る商売)は、ほとんど高岡製の犁先を販売していた。高岡製の犁先は硬い鋳鉄で、県外産の鍛鉄のものと比較すると、粘りが少なく割れやすいが、強さでは勝っていた。
 (養田実・定塚武敏編『高岡銅器史』1988、桂書房、p566~567)
3.『砺波の民具』砺波市立砺波郷土資料館、2006、p17
4.南部鋳造所
 注2にもあるように犂先の主な製造業者に南部長七がいた。「南部長吉工場(鉄器工場)」は明治26年(1893)10月に横田町に創立(『高岡銅器史』p524)。また現在の金屋本町3-45に「旧南部鋳造所(キュポラ・煙突)」(国登録有形文化財)が残されている(『富山県高岡市の文化財』白鳳会、2009、p35)。

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キーワード

高岡 / / 鋳物 / 砺波

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